2018年08月24日

日本歴代最強のモンスター法律だった治安維持法の理念は今も生きているようだ。『ETV特集 データで読み解く戦争の時代 第一回:自由はこうして奪われた〜治安維持法 10万人の記録〜』。どうして社会を良くする為の情報公開が秘密指定によって遅らされるのだろうか。

昨日は二十四節気の14番目の処暑であり“夏の暑さが収まる頃”のハズでしたが、台風20号が来ているやら、一方、新潟県などはフェーン現象の為、全国の観測地ランキング(日最高気温の高い方)のトップ7を占めるやらなどで処暑らしい納涼の話題はどこにもありませんでした。
ちなみに、昨日の全国の最高気温は新潟県胎内市中条の40.8℃で、7位は新潟県東区松浜の39.5℃でした。
また日本の南の海上には台風に発達しそうな低気圧が発生しています。

まだまだ暑くて台風の到来する日本の夏は続きそうです。



先日、Eテレで『ETV特集 データで読み解く戦争の時代 第一回:自由はこうして奪われた〜治安維持法 10万人の記録〜』が放映されていました。
この『データで読み解く戦争の時代』ですが、昨今、秘密指定解除の期限が切れて、開示され始めた司法省や内務省などの公文書からデータを入手し、その切り口から時代を考察したものでした。
それらの公文書はアナログな文書ですが、そこから地道に数値データを吸い上げて、それを解析し考察を加えています。

第1回のテーマは治安維持法に関するものです。
1925年に制定されたこの法律の適用が“いつ、どこで、誰を対象として”あったのか、つまり取り締まり者の記録を公文書から抽出し、治安維持法がGHQによって廃止命令されるまで、どの様に運用されていったのかを考える事で、その当時の国の思惑、そして戦争に向かって行った1つの背景を推し量るものでした。

最後の最後に番組制作スタッフさんの方々の考察の“甘さ”が出てしまいましたが興味深い内容でした。



番組は、当時、学生さんで現在97歳の方のインタビューから始まります。
当時、人々の何気ない日常を絵に描いていたのですが、突然、特高警察に連行され逮捕されたのでした。何故、自分が捕まったのか全く分からなかったそうです。

その方は刑務所に1年収監されました。学校は退学させられ、周囲からは非国民とかスパイやらといった犯罪者のレッテルを貼られて大変だったそうです。


罪名は“治安維持法違反”でした。



治安維持法は大正14年2月18日に法案として帝国議会に提出され、法案となりました。
この法律の制定当時の目的は、国体の変革(天皇制を辞めましょう、とかを唱える事など)や私有財産制度の廃止を訴える結社を取り締まる事にありました。
つまり、専ら共産主義を掲げる集団の取り締まりでした。


一般的に共産主義とは“財産の私有を否定し、生産手段・生産物などすべての財産を共有することによって貧富の差のない社会を実現しようとする思想”の事です。
今、日本にある政党支持率2.7%(NHKの2018年8月度の世論調査)の日本共産党は“共産党”を謳っていますが“共産主義”を全く掲げていません。当たり前です。今の日本社会で私有財産の否定なんて主張したらそっぽを向かれてしまいます。
日本共産党の掲げる政策はどちらかというと“民主社会主義”と言われるものでしょう。

一方、治安維持法が最初に標的にしたのが本来の共産主義でした。
何で標的にされたかというと、“財産の私有を否定し、生産手段・生産物などすべての財産を共有することによって貧富の差のない社会”が当時の日本の国家体制にそぐわないどころか否定するものだったからです。

当時の日本は天皇をトップとする国体国家体制でした。財閥とか軍や政府関係者に権力や財が偏る社会でした。
実は法律制定の1925年の8年前、ロシアではロシア革命が起きました。封建領主からの搾取に疲弊した民衆が大規模なデモやストライキを起こし、(結果的に)皇帝ニコライ2世を追放しました。
その後、“十月革命”をへてソ連は世界初の共産主義国家に向かって行きます。
この思想は日本にも伝わり、大正デモクラシーの中で権利意識に目覚めた人々の中に共産主義の思想が拡がっていきます。そんな共産主義は日本の国家体制への疑念を抱かせ、更には国家体制を否定します。

ですから国家としては共産主義を排除する仕組みが必要になりました。
当時の司法大臣(今の法務大臣)の小川平吉は共産主義思想を国家の危険と見做し、その危険から国家を防衛しなくてはならない、と述べています。


そして編み出されたのが治安維持法でした。
制定当時の治安維持法の第1条は、国体(天皇制)の変革や私有財産制度の否認を目的をした結社を作り、加入した場合は10年以下の懲役or禁錮に処す、とあります。


しかし、この治安維持法は共産主義思想の取り締まりに留まらなかったのです。

最近、秘密解除によって特高警察の公文書(特高月報とか捜査資料とか)が開示されました。そこに記載されている約10万人にも及ぶ検挙者の実態(時期、場所、人数など)を調べていくと、政府が国策の“妨げ”をどの様に排除していったのか、更には、最初は共産主義者の取り締まりが、どうして共産主義とは関係ない一般市民の取り締まりに移っていったのか、といった社会情勢を窺う事が出来ます。

何が起きたのかを順番に見ていきます。

まず法律が施行された1925年から3年間は検挙者は殆どいませんでした。
しかし、1928年に一気に増えます。この年の検挙者は3,426人に跳ね上がったのです。

1928年には初の共産党に対する大規模検挙が行われたからです。この年の3月15日に1日で千人以上が検挙され、これが三・一五事件と言われます。
検挙されたのは日本共産党の関係者は勿論、労働農民党、日本労働組合評議会、マルクス書房、東京市従業員組合本部、産業労働調査所、無産青年同盟本部、希望閣、など諸々の関係者でした。
関係者の中には実際には関係のない方も含まれました。更に、その関係者の子供、14歳の少女も検挙されたそうです。拷問近い取り調べを受けたとの証言もあります。

尚、検挙は特別高等警察(いわゆる特高)が行いました。
特高は事件(←社会変革)を未然に防ぐ事を目的とします。事件が起きてしまったら特高の汚点です。ですから事件が起きる前に予防的に取り締まるのです。共産党内にスパイを潜伏させそこから情報を得たりします。更に、疑わしい者も検挙しました。予防警察としての性質故です。
そうして起きたのが三・一五事件でした。
従って、検挙者の中には無関係者も少なくありませんでした。しかし、強引な取り調べから逃れる為、自白する人も少なくありませんでした。自白したら有罪となります。

※この頃の自白に頼る捜査手法は今の警察捜査にも引き継がれています。
取り調べに弁護士を立ち会わせず、自白強要を延々と行う日本の捜査手法は国連の人権部会から“現代の拷問”とレッテルが貼られています。欧米先進国ではこの様な取り調べはあり得ません。


“こんな感じ”で検挙していくものですから検挙者は増えていきます。
1930年以降は地方での検挙者が増えて行きました。そして1931年には1万人を超え、1933年には1万4,622人にもなります。

しかし、実情は“こんな感じ”ではありませんでした。

実は1933年には二・四事件というのが起きました。
これは1933年2月4日から半年程の間に長野県で多くの学校教師などが検挙された事件です。新聞の見出しには『戦慄!教育赤化の全貌』とありました。
”赤”と書かれていましたが、この一斉検挙で捕まった教師の方々の多くは共産党員ではありませんでした。


実は1929年〜1933年の間に治安維持法で検挙された人々における共産党員の割合は3.4%でしかなかったのです。

1928年の検挙は確かに共産党員が多かったのでした。それは当初の共産主義の摘発という治安維持法の趣旨通りです。
しかし、1929年に治安維持法は改正されていました。
治安維持法の改正法案には、死刑の導入と共に、“目的遂行ノ為ニスル行為”、つまり、目的遂行罪が新たに付け加えられていました。これは、犯行を犯して罪、なだけではなく、犯行を犯す為に(準備とか計画立案とか)行う行為も罪、という事です。

実は司法当局は三・一五事件の時に苦い経験をしていました。
あの事件で検挙はしたものの、その多くは共産党員である事を立証できずに釈放しなければならなかったのです。だから目的遂行罪を加えて改正したのでした。

※尚、この改正治安維持法は通常の帝国議会で議決されたものではありません。目的遂行罪を加えた改正治安維持法の法案は審議未了で廃案になってしまったのでした。それでは困ってしまうので、政府は緊急勅令、つまり、天皇の命令という大技を使って治安維持法改正案と同じ形で目的遂行罪を含む治安維持法を施行させました。

※緊急勅令は本来、災害時に用いられるのですが、共産主義者(の可能性のある奴ら)を野放しにする事は国家にとって非常事態として、改正治安維持法に反対する人を説き伏せました。
目的遂行罪によって無実の人が検挙される事を危惧する声が帝国議会内にあったのです。


この様に、二・四事件の様に、共産党員でなくても“共産党を手助けする様な行為”という事で多くの人々を検挙出来る様になったのでした。
さて、手助けする様な行為ですが、それは、共産党の考えが記載された文章を配布したり、友人と学習会とか読書会と称して文献を読んだり、といった行為も含みます。これらは将来の共産主義社会を作るための行為と見做されて治安維持法に引っかかるのでした。

1929年は世界恐慌が起きた年です。世界的な不況は日本でも不況をもたらします。長野県の不況も深刻で、教育を受けられない子女も多く、そこで長野では教員が組合を作って『教育費を国が負担して』と訴えていました。
そこを特高から狙われたと言われます。その様な組合活動が目的遂行罪とされたのでした。
ただ、組合のメンバーでない方も組合の友人と(学習会とか読書会とか登山サークルとかで)交わると検挙されたそうです。
二・四事件では起訴罪状は全て目的遂行罪でした。


目的遂行罪が含まれた治安維持法は適用範囲を拡大した事もあって検挙者を増やしていきます。曖昧な条文は拡大解釈を容易にするのです。
1933年の日本労農弁護士団事件では弁護士が大量検挙されました。つまり、治安維持法の検挙者を弁護できなくなりました。治安維持法は無敵の法律となりました。

※最近の中国における国家転覆罪を拡大させて人権派弁護士をビシバシ検挙するのと似ています。中国は日本の軌跡を辿っているみたいです。
7/29記事:『国益に資さない人を長期拘束するという点では日本も中国もあまり変わらない。NHKスペシャル『中国“法治”社会の現実〜消えた弁護士たち』:拘束された人権派弁護士はいつ出てこれるか分からない。日本の入国管理局に収容された外国人は明日が見えないまま精神を病んでいく。』


プロレタリア文学として有名な『蟹工船』の著者、小林多喜二も目的遂行罪に問われました。
小林多喜二は2度目の検挙で取り調べにおいて拷問され獄死しました(遺体の内出血した両太ももに酷い拷問の痕が窺えます)。

『君たちはどう生きるか』で去年、再注目された作家の吉野源三郎も有罪判決を受けました。『君たちはどう生きるか』は釈放後に執筆されました。


この様に1933年には適用拡大が可能になった治安維持法検挙者は1万4,622人にもなったのです。
しかし、その翌年の1934年には治安維持法による検挙者数は急減します。

この頃、検挙された共産主義者のリーダークラスの方々が獄中で“転向”表明が相次いだのです。
“転向”とは、思想や政治的な主張や立場を変更する事です。但し、この場合は特高などの弾圧により共産主義や社会主義の立場を放棄する事を意味します。

この相次ぐ共産主義者の転向表明には内務省の方針がありました。
この時期、内務省は、治安維持法検挙者の8割を転向させた(転向が57%、準転向が22%)、と発表しました。
これが検挙者の急減となりました。

これは検挙者を減らす為というより、新たな共産主義活動者の発生を抑える為の政策です。新しく思想に染まる人を増やさない為です。

さて、この共産主義者の転向は共産主義や思想を放棄させれば完了です。
一方、共産主義とは無関係、つまり、目的遂行罪で検挙された人の転向も強いられました。共産主義なんて元々持たない方々の何を転向させるかですが、それは国策への積極的な協力姿勢を示させる事だったのです。

例えば、当時、日本は国策として満州への移住を勧めていましたが、その移住に応募するよう人々を斡旋する事です。二・四事件で検挙された教師は教え子を満州に赴かせる様に説き伏せたそうです。例えば、これが一般人に要求された転向でした。よ〜く考えるまでもありませんが、こうなるともう“転向”ではありません。

国に言われる通り、教師は教え子を満蒙開拓団などとして満州に送り込む事に加担した事になりました。しかし、将来的に大変な苦労を強いられる満蒙開拓団として教え子を行かせてしまった教師は、その後、その事に大いに後悔し苦しむ事になります。満州に行った人々の多くが戦時中の混乱、そして引き上げ時に亡くなったからです。

※長野県からは満蒙開拓団として全国最多の6,216人の少年達が満州に送り出されました。そしてあまりにも悲惨な運命を辿ります。
2017年10/19記事:『イノベーション(創新)を進める中国に残業規制はあるのだろうか?Eテレ・ETV特集にて8月に放映されて話題になった『告白〜満蒙開拓団の女たち〜』:こんなハズじゃなかったと現実を否定すると自分も否定してしまう。難局があっても生き延びた、という事は尊い事。やはり戦争をやってはいけない。』


この様になってくると治安維持法の役割りは“国民を国策に従わせる”という事になります。
国策に従わない国民は治安維持法をもって、国に従わない目的をもった者として処罰できるのです。
そしてこの法律があるから、国に従う事の“是“という価値観が国民の中に根付いたとも言えます。法律を守る事が良き市民なのですから…。
国は治安維持法を用いて戦争体制に入っていく国民づくりをした、とも受け取れます。


さて、この法律は日本国内のみならず、日本が植民地としていた朝鮮半島でも適用されます。
日本国内の検挙者は(把握した限りにおいては)6万8,332人でした。しかし、国外にも治安維持法検挙者がいて、朝鮮半島では2万6,543人、関東州では420人、間島(かんとう:豆満江以北の満州にある朝鮮民族居住地)で5,716人、そして台湾では643人、合計3万3,322人もの人々が検挙されました。

朝鮮半島では1910年の韓国併合以来(この時は韓国と北朝鮮とに分かれていません。1つの韓国でした)、日本の統治下にありました。そこでは日本式の教育が行われ、朝鮮語の使用も禁止されていました。当然、日本の強引なやり方に反発する人も現れます。勿論、共産主義を掲げる人なんかいません。ただ、そんな日本の統治に不満を持っていただけです。自分達の言葉や文化を守りたかっただけです。

しかし、それは日本からすれば国策に反する不満分子です。そんな不満分子を取り締まるのに使われたのが治安維持法だったのです。
朝鮮では1919年の三・一独立運動の様に日本の植民地支配に抵抗する運動がしばしば起きていました。その活動の抑え込みに治安維持法が使われたのでした。
植民地は日本の領土であり、それを独立させるなんて事は天皇が持つ統治権を縮小する事であり、それはまさしく国体の変革を目論むものだ、という論理です。

※調査によると朝鮮半島の2万6,543人、関東州の420人、間島の5,716人、そして台湾の643人は何らかの形で独立運動にかかわった事で治安維持法が適用されたそうです。
これらの土地での治安維持法の適用は日本国内より厳しく、死刑判決も下される事もありました。



この治安維持法によって法施行から10年の1935年には日本における共産党は壊滅しました。

この時点で治安維持法は当初の目的を成し遂げたのでその役割は終わるはずなのですが、共産主義者(団体)がほぼいないにも関わらず1,000人前後で検挙され続けるのでした。

実はこの期間、特高は更に取り締まりの範囲を広げて検挙し続けていました。
公になった特高警察の資料には“共産主義関係”と書かれたリストがあります。しかしリストに記載された団体名には共産主義系と思われる組織もありますが、必ずしもすべてが共産主義組織を匂わすモノではありません。

新築地劇団関係、生活学校関係、唯物論研究会、神戸詩人関係、劇団新潟、大阪協同劇団、YWCA関係、人形工房、楽園創世グループ、日本灯台社、…。

※勿論、名前なんてどうとでもできますので、名前だけでは判断できませんが…。尤も、怪しい団体は少なくはありません。

ちなみに、前出の新築地劇団関係ですが行っていた舞台の内容が国体を破壊する、との理由で治安維持法が適用されました。
これらの団体は共産主義云々でもなく、国策に害を与えるでもなく、国策に沿っていない、という理由で摘発されました。つまり、社会は国策と同じでないものを全て“違反”としたのです。勿論、国策に反するものは論外ですが、国策と同じでないとダメなのです。


1937年に日中戦争がはじまり、日本は戦争体制に入っていきます。
1938年に国家総動員法が施行されます。

国民は国家と同じ方向を向かなければなりませんでした。同じ方向を向かないモノを罰する法律として治安維持法が使われたのでした。


更に、適用範囲を拡大する為に治安維持法の改正が1941年に行われます(総理大臣は近衛文麿)。
元々7つの条文でしたが、この改正で65条に増えました。目的遂行罪の適用範囲は大きく広がりました。この改正まで、条文になくても拡大解釈などで適用範囲を広げていたのですが、この改正ではそれまで拡大解釈をしていたものをちゃんと条文化した、という事が行われています。

本末転倒です。現在、自衛隊は憲法学者が厳密に解釈すると(憲法9条2項に対して)違憲だから、憲法に記載して合憲にしちゃおう♪という考えがありますが、今から77年前にそんな発想が実施されていました。

尚、1941年の改正にて第26条に“尋問調書の証拠採用“といって、自白に基づく尋問調書を検察が提出したら証拠として採用される事、が加えられました。
つまり、拷問でも恫喝でも何でもして被疑者を“自白”させる事が出来たら、立件できるのです。

この時の改正治安維持法の第26条の“尋問調書の証拠採用“の考え方が、自白偏重と言われる現在の警察の取り調べ手法や立件手法に引き継がれているのです。延々と長時間の取り調べで被疑者を根負けさせて調書にサインさせるのも、ここにルーツがあると言われています。


そんなこんなで1945年に日本は敗戦を迎えるのですが、実は特高は敗戦を迎えても任務を続けていました。
敗戦をしたのですが、特高は天皇制を否定するものがいないか監視を続けていたのです。

治安維持法が廃止されたのは敗戦から2ヵ月が経った1945年10月です。GHQが治安維持法の廃止を日本政府に求めたからです。ちなみに、その時のGHQの文書(日付は1945年10月4日)の“subject”には『Removal of Restrictions of Political, Civil, and Religious Liberties:政治の自由、市民権の自由、信仰の自由の制限の排除』とありました。


治安維持法で収監されていた人はこの時一斉に釈放されます。
一方、特高警察は人権を侵害した罪を問われて罷免されました。

これによって20年に及ぶ治安維持法の時代が終わりました。
この20年の治安維持法時代で検挙された人々は日本国内、植民地合わせて10万1,654人にも上りました。


最初は共産主義を取り締まる法律でしたが、そこに目的遂行罪が付加されて共産主義に関わりそうな人々も対象になり、更に拡大解釈され、日本の国策に沿わない人を片っ端から検挙する事を可能にする法律となりました。
その法律の強さは、治安維持法で検挙された人を弁護する人まで検挙する事が出来るという無敵のモンスター法律となりました。日本歴代最強の法律と言えるでしょう。



しかし、治安維持法が持っていた考え方のエッセンスは、今の日本の司法制度の問題や日本で論じられている憲法改憲に通じる問題の中で今も息づいています。
言い方はきついですが治安維持法は無くなりましたが、その考え方残っています。

自白を偏重する刑事制度があるのはこの治安維持法の理念が残っているからです。
また、前述した様に、憲法9条をめぐる改憲論争がありますが、自衛隊は憲法学者が厳密に解釈すると(憲法9条2項に対して)違憲だから、憲法に記載して合憲にしちゃおう♪という考えは1941年の改正治安維持法でやった事と全く同じです。
何よりも曖昧な文章とする事で解釈の余地を残しておく文化が今も日本の法体系の中に残っています。



現在、治安維持法に問われ検挙された人は国に対して謝罪や賠償、更には(国による公式な)実態調査を求めています(治安維持法犠牲者に国家賠償法の制定を求める請願)。この国会請願は45年前から行われています。

この件に関しては国&法務省の対応ですが、当然、謝罪する事も実態調査を行う事も認めていません。
去年、テロ等準備罪を成立させた当時の法務大臣の金田勝年(現在は68歳)は2017年6月の衆議院法務委員会で次の様に答弁しています。

『治安維持法は当時適法に制定されたものでありますので、同法違反の罪に係ります勾留・拘禁は適法でありまして
(中略)
謝罪及び実態調査の必要もないものと思料しております。』


そんな事はないでしょう。
本当はNHKの番組としてこの点についてはしっかり語っていただきたかったのです。本当はこの番組は、法務大臣コメントの『治安維持法は当時適法に制定されたものでありますので』なんかで終わらせてはいけないのです。
甘過ぎます@NHK。


金田前法務大臣は答弁書をそのまま読んだだけですが、実際にはツッコミどころは色々あります。
“適法として制定されたものだから“は理由になりません。適法として制定されていたものでも、その後の判断から当時の違憲性が問われて国が謝罪や賠償をした件はいくらでもあります。
一番分かりやすいのが『らい予防法』です。
『らい予防法違憲国家賠償訴訟』によりこの法律の不作為が国家賠償訴訟の中で明らかになりました。伝染力が低い事が世界的にも明らかになった後も人権侵害的な隔離政策が行われました。そして、この法令の違憲性が熊本地方裁判所で認定されています。

※2016年4/28記事:『ハンセン病の隔離政策に一貫して反対した小笠原登氏。“救癩の父”と言われ隔離政策を進めた光田健輔氏。ETV特集『らいは不治にあらず。〜ハンセン病隔離に抗った医師の記録〜』より。それは私であり、あなたです。』

それから障害者への強制不妊手術を認めていた旧優生保護法もそうです。


勿論、謝罪や賠償を認めたくない国の言い分も分からないでもありません。
実はこの件を認めてしまうと、国外、特に韓国の方々のハートに火を付けてしまいかねなく、ただでさえ歪んでしまった両国の感情が更に捩れます。

ですが、もう少しツッコむべきでした。



『ETV特集 データで読み解く戦争の時代 第一回:自由はこうして奪われた〜治安維持法 10万人の記録〜』には色々と考えさせられます。
思うのですが、この様な事はもっと早く知るべきではないでしょうか?
もっと早く特高など公安の資料が開示されたら、と思うのです。

何の為に秘密指定期間があるのでしょう?どうして世の中の成熟を遅らせる仕組みがこの社会にはあるのでしょう?それが大きな疑問です。


それでは。

※次回のETV特集 シリーズデータで読み解く戦争の時代ですが、第二回は『隠された日本兵のトラウマ〜陸軍病院“戦時神経症”8000人の記録〜』だそうです。8/25(土)の深夜に放映されます。

posted by 悠汲の日々 at 15:30| 日記 | 更新情報をチェックする